清水康弘による劇団あとの祭りの装置に関する覚え書き

 

第二回公演〜1/4の右目の記憶〜
(1992.8.29-30)

2003年9月7日

清水康弘が劇団あとの祭りの装置について旗揚げ公演から順に解説するというこのコーナー、今日は第二回目公演「1/4の右目の記憶」についてお話しましょう。

やはりまずは当時の時代背景をお話しないといけないでしょうね。
1991年11月、旗揚げ公演が終わった後 劇団員はそれぞれの道を歩みだしたようでした。4月、新年度をを迎え就職するもの、自らの意思で学校に残るもの、自らの意思に関係なく学校に残るもの、新たな生活がスタートし既にメンバーの頭の中には次の公演のことなど思い浮かぶことはなかったのでしょうか。
否!!そうではありませんでした。
5月の連休を待つまでもなく4月の25日、沓名宅に集結した私たちは未だ冷め遣らぬ舞台への思いを持ち寄り、その後10年以上にわたる継続への一歩をあらためて踏み出したのでした。
公演日決定。そしてその一週間後の集会において脚本担当浅野と決定。それは当時私たちが夢見、かつ未だ経験したことのないオリジナル脚本公演のさきがけとなるものでした。劇団を続ける以上、既成の脚本でやっている場合ではない、どんな困難な道だろうと今後はオリジナルで行くべきだと。
しかしまさか脚本完成が公演1週間前になるとは誰も予想できなかったのです。

さて、この公演で新たに加わったメンバーとしては、大原朋子、堀江倫子、馬渕笑子といった人たち。
大原はその後リタイヤする松村の跡を引継ぎ制作の重鎮に。馬渕は玉置とともに音響効果の黄金期を築くことになります。そして旗揚げで音響オペだった佐々木は照明オペに転身、その後三段クロスフェーダーのスーパーテクニシャンに成長します。堀江は玉置の友達で元お客様だった人ですが、このときから参加。いきさつは・・・わすれました。
逆に不参加のメンバーは、土本、内藤、といったところ。理由は...わすれましたね。

当時はまだ岐阜大学の構内で練習をしていました。
夏だったこともあり、ピロティと呼ばれるフリースペースで迷惑顧みずやっていました。まだ学生が多かったですしね。
かといって集会室等を借りられるわけもなく、しばらくジプシーのような稽古生活でした。

ではいよいよ装置の話に入りましょう。
このときは本の完成が遅かった為、見切り発車で装置も進めざるを得ませんでした。今となってはよくあることなのですが、それまで最初から完成した本でしかやったことのない自分にとっては不安なことでした。
台本の途中の段階までの立ち位置等の条件から、段はまずつくろう。やったことないけど傾斜にしたらおもしろそう、というか一度やってみたい。
ということで初めての傾斜舞台にしました。
初めての経験なので、どのくらいの傾斜にするのがいいのかさっぱり分からなかったのですが、えいやっで決めてしまいました。

そしてオブジェとして、この本のキーワードになっているDNAの二重らせんを作りたいと思いました。うまくつくればきっと美しいだろうという直感がありました。
しかしどうやったらあんな複雑なものをきれいに作れるのか皆目見当がつかず、ホームセンターめぐりをして素材、製作法を考えました。
その結果、また透明素材にしました。今度は無色透明なビニールシートです。
旗揚げ公演で味をしめていたので、これに光を乱反射させたらきっと綺麗になると根拠もなく確信していました。
ただやはり不安だったのは作って持ち込めないこと。
頭の中で繰り返しシュミレーションしただけで、ホール入り当日は素材のまま搬入し、現地で一から作るという荒業でした。
まず、天井に合板をカットした円盤を固定し(そういうことが自由にできるのがこのホールのいいところ)その円周に合わせシートを筒状に吊り下げます。その時点ではタダの透明な円柱です。その円柱に巻き付けるようにシートを軽く絞ったものをセロテープで貼り付けていき、二重らせんを描きます。
それだけのことなのですが、綺麗につくるには結構頭をひねりました。まず、らせんの形をきちんと均等にして貼らないと、下の方がすぼまってしまうのでした。それが2本あるのだから、バランスも含めて調整するには思ったより時間を食ってしまいました。
そして、セロテープの貼り位置をいかに目立たないようにするか。最初はうまく絞りの内側で固定したようでも、照明の熱でシートが軟らかくなって伸びてしまうのでした。それは絞りの形をうまく調整することで緩和できました。
照明を当てた二重らせんは思った通り綺麗でしたよ。

段や床の色は、無色のオブジェを作ろうと思った時点で黒に決めていました。
無色のオブジェを生かすには回りに明るい色があってはダメだろうと思いました。普段は床にはグレーのパンチカーペットを敷くのですが、ベニヤ板を買い込んで真っ黒に塗って床板として使いました。
当時僕は今も勤めている塗料原料関係の化学品製造会社の新入社員で、うまいこと塗料を手に入れられないかと思って合成樹脂部の人に話をしてみたら、ちょっとスペックが合わずに不合格になっているものなら持って行っていいとのこと。製作経費節減になりました。(今ではそんなこと恐くてできません。何も知らない新入社員はおそろしい)
もらった塗料は無色だったので、墨汁を入れて使いました。光沢のある床面になりました。

この時も、偶然のように出た効果がありました。床が光沢のある黒い面だったので、人の姿も照明の色も反射して見えたんですね。バックに何色かの照明がついた時は虹のようでしたよ。

そういえば装置の一部としてベッドが必要で、僕の実家の物置に入っていた古い鉄製の折り畳み式ベッドがあるのを見つけて、親に聞いてみたら叔父さんが若い頃に使っていたものだそうで、もらってきて使いました。
すごく重いもので転換は長かったです。失敗です。
そんなことより、このベッドに大原が眠っているシーンがあって、周りでダンスが始まると大原も起きて一緒に踊るという設定があったのですが、リハーサルの時きっかけのポイントが来ても起きない。なんと、ホントに寝ていたのです!みんなすごいビビった。さすが大原。

さて、ちょっと話を戻して稽古期間中、台本が完成に近づいてくるとクライマックスのシーンでなにかひとひねりしたくなりました。
そのとき既に使うことに決めていた透明シートでなにかしたいなと思い、きっかけのところでもうさらに何本か二重らせんのオブジェをズババッと立ち上げ、さらに回転させるというプランを本気で考えていたのですが、ホールに入って仕込みの途中で不可能と分かってあきらめました。(まだまだ未熟でした)
でもせっかく素材は準備してあるし、ただあきらめるのは悔しいので、シートを切り刻んで天井から降らすことにしました。
ところが今度は、切り刻んだシートが照明の熱で軟化していて、なおかつ静電気でくっつきあって、きれいに降らないのです。
考えた挙句、降らす用のシートは使う直前まで楽屋のクーラーの前に置いておいて、使うときは静電気除去スプレー(エイトフォー)をかけて使いました。
もちろん、降らすのは、本番中に人が天井に上ってやるのです。
これだけ苦労したわりには、その効果としては「ま、なにもしないよりはマシか」という程度のような気がして(自分的には)、ちょっと申し訳なかったかも。
(その他舞台写真)

芝居の出来自体は、今から思えば抹殺したくなるようなものに思えるのですが、これがあるからこそ今のAPがあると考えると愛しくなってくるような気もします。少なくともあの時はあの時なりに必死で良いものを目指していたと思います。
とは言うものの、あの頃に比べれば今のほうが確実に毎日忙しく、必死なようでまだまだ甘かったんだなあ。
(おまけ、なんか恐い写真)

では、また次回をお楽しみに。
次回は第三回公演「She said,she said.」です。

 

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