清水康弘による劇団あとの祭りの装置に関する覚え書き

 

旗揚げ公演〜けれどスクリーンいっぱいの星〜
(1991.11.02-03)

2003年6月2日

今日は、私達劇団あとの祭りの旗揚げ公演「けれどスクリーンいっぱいの星」の装置に関してお話ししようと思います。ただせっかくの機会なので多少装置の話から外れながら進めるかもしれませんが。

1991年すなわち平成3年のことです。
当時岐阜大学の演劇研究会(劇研と呼びます)を脱会したメンバー(劇研は3年生まででやめることになってましたので)、つまり当時の4年生である私、沓名、土本、浅野、内藤、小川、玉置、そして学外なのに劇研にいた松村、飯田、あと我々の先輩なんだけど大学にいた中島、長久、伊藤といった面々が、卒業する前に最後にやりたい人だけでやりたい芝居をやろうと。それにはやはり大学祭だろうと結成したのが劇団あとの祭りです。
そのときは1回限りの公演のつもりで、まさか2回目以降も本気でやろうと思っている人は(一部を除いては)いませんでしたので、劇団名もその場限りのカラッとした名前でと決まったんですね。
そして本はみんなが当時大好きだった劇団ショーマのこの本に最初から決まっていたわけです。むずかしい本だけど「お祭りだから」「これっきりだから」と、でももちろんやるからには持てる力をすべて出そうと、みんな若かったんです。

ところがみんな役者をやるつもりなものだから照明や音響の操作をする人がいないんですね。それを知りながらも「なんとかなるさ」と体制は動き出してますから、劇団員の知人で能力のありそうな人ををかき集めたんですね。
それが沓名の高校時代の友人の佐々木、玉置の友人で大洞、この2人が音響です。佐々木は今や劇団あとの祭りの照明としてかけがえのない一人になってますが最初は音響からスタートしたんですね。そして中島の研究室でバンドをやっていた岩田、伊藤という人々が照明です。2人ともカラダが大きいし、ある意味役者より存在感がありましたね。照明席だけ雰囲気が違いました。
その他にも、本番では現役の劇研メンバーの力も不可欠でしたね。1年下の大原はもちろん、2年下の福富、川村やさらに下の人々も私達のお祭りに力を貸してくれたんですね。(ピンスポット要員)
(仕込み前日のメンバーの様子)

さて、やっと装置の話に入るんですが、この「けれどスクリーンいっぱいの星」という芝居はどうしても広い会場でやる必要がありました。大学祭ですから御浪町ホールは範囲外ですし第一狭いですね。それに、いまさら学内の大ホールでもつまらないですから新しいことをしたかったんですね。野外公演という冒険は魅力的ではありましたが夜しか出来ませんしあまりに分からないことだらけでしたから選択肢からは外れました。テント公演という案も候補に上がりましたが、必要なテントの仕様を詰めるとかなりの費用になりそうでこれも却下。そして残ったのが体育館でした。

しかし体育館というのはすごく広いんです。私達のやりたいことは体育館の4分の1の空間があればできてしまうんです。
それでどうしたかというと、まさに体育館の4分の1だけを使ったんですね。
これは実際やってみるとおもしろかったですよ。舞台より客席より袖が広いんですから。(袖の様子)
ただ、空間を作る方としては頭を使いました。お客さんに芝居に集中してもらうことを考えると単にだだっ広い空間ではダメだと思いまして、やはり囲う必要があると思ったんです。
それで、ありったけの幕をつかって客席の横はもちろん塞いで、それに入り口から客席までの通路として卓球台を並べて幕で覆ったんです。電源の関係で体育館の入り口から客席までは15mくらいあったんですが、その距離をトンネルのようにして現実世界から切り離すような感じにしたかったんですね。そして、公演終了の時はその通路を取っ払って体育館全体を明るくしておいたので、帰り際に後ろを振り返ると、ついさっきまで非現実の物語を見ていた空間がすみっこにちいさく見えるという計算でした。ただこのことについての感想を誰からも聞かなかったのでどれほどの効果だったのかちょっと分からないですね。自分で通ってみた時はけっこういい感じに思ったんですが。(客席の様子)

装置本体は基本的にはホンモノの真似でした。それ以外考えられなかったですね。舞台の後ろ半分を高さ2メートルの段にして、前半分の空間と分けました。左右の階段で段上と段下を行き来出来るのですが、この階段はちょっと危なかったですね。踏み外しやすい階段でした。事実私は本番で踏み外しました。今の私なら却下するプランでしたね。(仕込みの様子1)
(2mの段上で激しい立ち回りを繰り広げた沓名と土本には感服しましたが)
こんなに大きな段は作ったことなかったのですが何の根拠もなく大丈夫だろうと思っていました。それより、大きいぶん材料をたくさん買わなくてはならないのでお金のほうが心配でした。
色は真っ黒でいいと思っていたのですが、実際に設置してみるとなんだかさみしい気がして、即興でど真ん中に横に1本シルバーの線を入れました。悪くなかったと思います。
真ん中には左右に開くトビラがありワルモノの登退場に使いました。(トビラの開閉担当は福冨でした)
そういえばこの公演で初めてCO
2を使いました。二酸化炭素ボンベです。ブシューと白い煙を出すやつです。単に面白かったんですが、最初は使い方になれなくて、噴射角の設定が良くなく直接人体に当てちゃったりして、その部分のズボンが凍りついた状態で芝居してる人もいました。
あと、イメージシーンでシャボン玉をだすなんてこともしてました。でもいまいち数が少なくて、でもそんなことに時間をかけて改良する暇はなかったので、ささやかなまま本番に乗りました。ちょっと残念でした。

さて、基本舞台は早めに設計を終えたのですが、それだけではつまらないと思っていました。なにかオブジェが欲しい。照明とからめられるもの。なにより、舞台にも客席にも天井に何もないのはまずいんじゃないかと思ってました。(もちろん体育館の天井はあるのですがそれははるかかなたで、空間が拡散してしまうイメージがありました。)
考え抜いて選んだ素材が透明なビニールホースでした。約2,000メートルほど使ったと記憶しています。
舞台奥上方の一点を集中点として、無数の(実際には64本かな)細線が放射しているようにセッティングしました。(34本は舞台奥のオブジェのように、30本は舞台から客席上空を通って後ろまで)
設置方法は紙の上でずいぶんシュミレーションしました。特に64本まとめた束をどこへ固定すればいいかを考えると、それは必然的に決まってしまうのですが、ロープで反対側のかなたの天井へぴっぱるしかないのです。(2000メートルのビニールホースはけっこうな重量でした)
それしか方法がないのですから、仕方なくイントレ(工事現場で足場につかうやつですね)を単独で5段立てた上で竿を使ってロープを渡しました。(担当沓名)
後にも先にもあんな危険な仕込みはなかったですね。(ホースの仕込み)
しかしなんとか設計図通りに仕上がり、さらに苦労の甲斐あってか、思いもかけない効果が現れたのには喜びもひとしおでした。

光の輪、とでも言うのでしょうか、舞台奥に設置された照明が点灯されたとき、それは現れたのでした。自分で作っておきながら言葉を失いました。照明を当てたらきっときれいだろうくらいには思っていたのですが、全く予想していない光でしたね。写真でもわかりますけど、実物はもっとよく見えました。人間の目というのはもちろんカメラより精度良いですし見たいものしか見ないですからね。
(光の輪)  (その他舞台写真)

ちなみに細かい仕事で、「勇気」とか「LOVE」とかのパネルを作ったりしました。これはベニヤにさらっと書いて棒に打ちつけただけのものですね。舞台の後ろのほうで福冨が走り回って転換してくれてました。(袖が必要以上に広かったので、ムダに遠くに置いてあったそうです)

さて、これで装置の話はほぼ終わりです。
この公演は照明さんも大変だったようで、なにしろ普通のホールにあるような天井のバトンはないので、地明かりもまともにとれないと苦労してましたね。あと電力も不足してたのかな?
またオペレーターも素人ふたりでしたからね。でもあの2人はさすがにセンスがよく、最後は勝手にオリジナルな明かりを作っていたと聞いてますが、それはそれで困りものですよね。

次回は第二回公演「1/4の右目の記憶」についてお話ししましょう。

 

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